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ら抜き言葉

 1月冒頭に何回か、書こうとして挫折し、下書き状態になっているものを削除し、さて気づいてみればもう2月10日、ずいぶん間が開いてしまった。そろそろ始動しよう。ということで、本年1発目。ブログ的には「あけおめ」状態だ。

 さて、mixiのニュースで取り上げられていた「教えて!goo」の「ら抜き言葉を直してもらいたい」というトピックをみての感想を少々。「教えて!goo」に質問者への回答として書くほどのことではないので、こちらで。

 かつて自分でも「国語のクイズという記事でちょっとだけ「ら抜き言葉」について触れているが、今でもその考え方は変わっていない。

 トピックの趣旨は、彼氏が「ら抜き言葉」を使うのが気持ち悪いし、父親も厳しいので、その前でそんな言葉を使ったら結婚を許可してもらえないのではという悩みに助言を求めたものだが。ポイントが「ら抜き言葉」と「このカップルの関係」の2点あって、賛否はそれぞれ出ている。

「ら抜き言葉」を使う人をこの人もそうだが、回答者の中にも「教養がない」という表現を使っているのが、実は少々気になった。

『教養』を辞書で牽くと


①教え育てること。
②(cultureイギリス・フランス・Bildungドイツ) 単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる
(広辞苑)

(1)おしえそだてること。「父は其子を―するの勤労を免かれ/民約論(徳)」
(2)社会人として必要な広い文化的な知識。また,それによって養われた品位。「―を身につける」
(3)〔英 culture; (ドイツ) Bildung〕
単なる知識ではなく,人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。
(三省堂国語辞典)

人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいわれわれの精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である。教養はとくに専門的、職業的知識を意識した場合、「一般教養」と表現されることがある。教養ということばの原語である英語やフランス語のcultureがラテン語のcultura(耕作)からきていることからわかるように、土地を耕して作物を育てる意味だったものを「心の耕作」に転義させて、人間の精神を耕すことが教養であると解されている。その「心の耕作」cultura animiという表現を初めて用いたのは古代ローマのキケロである。
〈諏訪内敬司〉
(スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書:一部抜粋)


とある。まあ、「ら抜き」言葉一つで無教養と思われるとしたら、なかなか辛いことだ。
 ただ、こういう場合もそうだが、他人に対して教養がないというような表現を使う場合は、非常に気をつけるべきだと思う。時代と共に生き方や考え方はどんどん多様化していくし、正しさと間違えを分ける分水嶺もとても低くなっている気がするからだ。自分の意見だとして述べるのであれば、相手を貶める表現ではなく、相手を尊重しながら言う方がいいと言うことだ。

 このトピ主が「ら抜き言葉」を受け付けられず困っていることだけを素直に書けば、反論は半分くらいで済んだのではないかと思えるからだ。「教養」という言葉を使ったり、どんな教育を受けてきたらこうなるのかのような表現が反感を呼んでいるに違いない。元々こういう表現は、その意思がなくても上から目線に見えるので、いかにあとで弁解してもその印象はぬぐえない。
 感情の問題は仕方がないので、「あなたのその表現は、私は耐えられない」と言うことであれば、結婚を考えようかという相手の気持ちは尊重してくれる場合が多いと思う。逆にそこで尊重しないという人であれば、前途が思いやられる。

 ただ一つ思うのは「食べれる、見れる」は仕方ないが、「信じれる」「耐えれる」「感じれる」は理解しがたいという行だ。これって、その人が単に耳や目にした回数に依存していないだろうか?ということである。あるいは、どれだけの人が、誰が使っているかという情報に左右されてはいないかということで、だとすれば、時間が経てば解消することではないか?ということである。

 先日、雑誌にちょっと記事を書き、その中で私は原稿に「当に好適の一冊」という表現を使ったのだが、実際には「本当に最適の一冊」と印刷されていた。意味は変わらないので「まさに」がいけなかったのか「こうてき」がいけなかったのか、いずれにしても一般的な表現ではないと思われたから変えられたのだろうが、あるいはこうやって言葉は消えていくのかな、と思った一瞬だった。
 友人にその話をしたとき、「こうてきってどういう意味」といわれたときにはその感をより深くした。
 仮にこの言葉が「古語」になるにしてもそれはだいぶ先の話で、でもいずれはそうなるのかもしれないわけだ。

 ただそれとは別に、過渡期というのはなかなか難しいもので、例えば言葉であれば、これまで無かった用法は「間違い」というレッテルを一時期貼られ、それが生き延びて定着すれば「新しい用法」に、消えてしまえば、一過性の言葉(場合によっては流行語)となるのだろう。
 伝統や習わしなどは、経過年数の長さだけで尊重されることも多い。尊重すること自体が悪いわけでは決してないが、そこから外れる者を排斥するのは簡単だが必ずしもいいことではない(状況によっては正しい場合もあるだろうが)。
 言葉も実はこの伝統に則っているので「文法」はその用法を使いやすくまとめたものに過ぎないので、文法に外れることが「間違い」なわけではない。許容していくのも一つのありようである。

 但し感性の問題は、できるだけ被害者に合わせていった方がよい。
 ら抜き言葉が苦手な相手にはそれを使わない、そばをすする音が苦手な相手の前では、なるべく音を立てないで食べる、などだ。ら抜き言葉や食事時の音に慣れさせるよりも、人として優しくあれる方が私は好きだ。

 
 

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